CitruSTUDIO 2

シトラスタジオ2

令和初!

おっと、今日は七夕だー
昔は七夕の日の給食は大体そうめんが出ていました(笑)

何気に令和初の記事となりました。
皆さん、お元気でしょうか。

私の方は、転職してあっという間に3か月が経ちました。
簡単に近況でも

◆仕事
4月は自社にいて、AIやよくAIを伴ったシステムに使用される言語「node.js」の学習をしたりしておりました。
提供される資料やツールも初めてのものばかり。
5月からは現場出向となりまして、こちらも4月にやった学習が十分に生かされたもの。
なかなか有名な企業と取引してAIを使用したシステムを作っていたりして、すごいなぁと思います。

アジャイル開発となったもので、昨年までやっていた
無駄な設計書、無駄なレビュー というのが本当にただの儀式的なものに思えてきてしまいました。
個人的にはいずれも作業しやすく働きやすい環境で、
働いてお金をいただいているのに毎日勉強しているような気分で、
勉強の内容も楽しい!って、思えてます。
周りの方々も本当に優しく、ゆる~いようで大事なところは大事に取り組んでる、っていう感じです。

おしん
入社し、「令和」という元号が発表される日の緊張した朝に、
突然、BSの再放送枠で36年前の昭和58年度の朝ドラ「おしん」の再放送が始まり、
ここ7年朝ドラを見続けてきた自分としては
「もう二度とちゃんと見れない、今やってくれるなんて、大チャンスでは」
「時間的に見やすいし、7:15始まりならば」
と思い、見ておりますが、すっかりハマってしまいました!!!
さすがは視聴率50%をほぼ毎日超えていたという…本当に見入ってしまい
放送されている15分の間は、息をしなくても大丈夫なのでは、という勢いです。

たまたまJCOMのwifiを入れる整備を4年前にし、おまけでケーブルテレビ経由のBSが見れるようになったんですが
今思うと契約しておいて良かったー(笑)

◆勉強
昨年不合格となった、年1度の秋の資格試験に今年もトライしようかなと思って
自分の出身大学の図書館の入場カードを作って、図書館で勉強を始めてみたものの…
うーん、なかなか不安な出だし。
技術力というより、国語力が欲しい気が。
最近、現場で定期的にプログラミングの勉強会が開かれているんですが、
比較的、国語の勉強をしているように思えて。すごい役立っておりますが。
なーんでこんなに語彙力と表現力に乏しいんだかと猛省。。。
たまには紙の国語辞典でも眺めてみようかしら。

他にも、AI絡みの講演会に行ってみました。
令和を生きるにはどうしたら…
概要としては「何事も楽しむ。やらされてる感でやると大敗する。」っていう感じだった気がします。
あと誰といたら楽しいかとか。そんなことを学べたのも印象に残りました。

◆家族
10連休に会った一番年下の甥が本当にかわいかったのでまた会いたい。

◆欲しいものリスト
・折り畳みベッド(現在のベッドが壊れかけていてピンチ)
・スタンディングデスク(場合によっちゃ不要?)
・700gくらいのノートPC
・それらを買う資金(笑) 休職中に使っちゃったので今は黙って貯めており。。。


とまぁ、そんな感じの日常でした。
これより短めの記事を週1くらいでアップできれば本当は良いなぁと思うんですが。

My Heisei Era Part 3(Final) 2011>>2019.4 ... and Next...

最終回ということで、
今回からは現在の自分の言葉だけで書いてみたいかと思います。

 

平成23年(2011)
震災。
本当に驚きました。

当時住んでいた家に戻ったのは、
3/12の朝。
私は地震があった時は、ちょうど月1回の自社への帰社日であり。

リーマンショックもなんとか乗り越え、
会社の経営もある程度元に戻り、
これからもこの調子で行きましょう!と会社の会長から
挨拶があって、全体会議が終わった直後、
ビルが揺れ始め、そしていつもより強く揺れ、慌てました。

あの時「なんで、こんなに揺れているのに、
最近整備されたという【緊急地震速報】っていうのが
町のどこからも聞こえなかったんだろう」と
私は口走った記憶があり。
こんなに大きな地震を体験したのは初めてでした。

毎日のようにテレビで流れてくる被災地の情報。
流されていく家、町、泣き叫ぶ被災者の方々。
辛くて、家で見ていて思わず泣いてしまったことがありました。

自分のところも揺れたけど、
大した被害はなく、なんとか自分は大丈夫だった。
東北地方では亡くなった方、行方不明になった方がたくさんいらっしゃる。
生きることができた自分。
生きていること、家族や友人も元気であること、
感謝しなきゃな、と、思い始めました。


仕事面では、当時いた現場でも
時々、突然ビルが激しく揺れて、何度も驚いた記憶がやはり一番強いですね・・・
職場の若手にすごく嫌な子がいたなー。
初対面で同じメンバーなのにやたら勝手に仕切ってくる女の子・・・
相当ストレスがたまった。
でも、震災が起きてから彼女はしょっちょう休むようになり、
裏で、職場のリーダーの方々から「彼女が調べた内容がめっちゃくちゃのぐっちゃぐちゃなので
申し訳ないが、(私に)代わりにやり直してもらえないでしょうか?」と
頭を下げられたことが。

彼女はやがて契約終了になり(させたれたらしい)、これで一応
不安要素なく作業はできたのだが、担当していた作業がまぁ意味がわからず、
業務が難しかったのかも。

この頃から「もう少し、自分のやっている作業を
年齢的にも少しレベルを上げてやっていかないといけないんじゃないかな」と
思い始めた気がしております。

 

 


平成24年(2012)
この年の春から、プログラミング言語Java」を使った仕事を
しっかりやろう、と思い始め、
会社の営業部にも新しい人が入り、そのようなしっかりした案件を取っていただき、
無事そこに配属できました。

その案件において、どのような業務をしているところが使うシステムで、
どのような改善案件であり、
そこでの設計、製造、テスト、というのはどのようにして行っていくのか、
ということをやっと、意識してやり始められたと思います。
ただ。

時々、プロジェクトにいらっしゃる人で、
本当にありえないくらい、人に対する態度が傲慢で失礼な人が多くて、
ここまでして私は酷い扱いを受けなければならないのだろうか、
と、不安になることが多かったです。
もちろん、名前は出せないですが、
大手企業の40代くらいの男性の方が、私がやったことを、延々と私の前に立って説教して叱り続けてきたりとか
自分と同い年くらいの男性の方が、一切私と目を合わせず会話もしてこずに、隣の席の私に文句のメールを送り続けてきたりとか
本当に、そのようなことが、ありました。
本当にこんなことがあっていいのだろうか。疑問に思い続け、
辛い日々が続きました。

辛かった日々が終わった最後の日に、金沢へ一人旅できたのが楽しかったです。
雪が降っていたなぁ。白子の天ぷらがとても美味しかった。
年の最後に、博多にも初めて行った。

あと、この年の自分の誕生日に
初めての姪っ子が生まれるという、嬉しい偶然がありました。

 

 


●平成25年(2013)
この年に知り合った人々は、家族のように仲良くしてくれて、
昨年とか、ここ最近振るわなくて、
やる気もなくして、スキルがつかなかった私に
勇気を与えてくださった方々に、なりました。

ある銀行の案件を1年ほどやっていたのですが、
私、大したこと全然できてなくて、その前の年に嫌な人に
イヤミを言われるのがもう、トラウマになっていたけど耐えていましたが、
ここで知り合った方々は
「どれだけ(私に)救われたことか」と飲み会で言ってくださったり、
何か小さな機能の確認が終わっただけでも、飲みに誘ってくれて
「いつも大変な仕事、本当にありがとうございます」と言ってくださったり、
ここまで優しくしてくれる人って、いるんだなぁって思いました。

プライベートなこともたくさん話すことができました。
それゆえ、仲良くなりすぎて、
その後、ややこじれたなんてこともありますが、
お仕事やご家庭が忙しくとも、
このメンバーでいると、大体いつも終電を過ぎます(笑)。
次会えるのはいつかわからないけど、
これからも仲良くしてくださいませ。


この辺りから、朝ドラを見るになったなぁ。
あまちゃん」と「ごちそうさん」がやっていた時期だったなぁ。

 


平成26年(2014)
この年も、色々な案件に行ったけど・・・

一番印象に残っているのは、
やはり、あのマネージャーの
チームメンバー全員へのパワハラがすごかった案件かな。
ドラマみたいだった。
マネージャーが突然クビにされ、
管轄の上層部がメンバー全員に揃って謝罪する、という。

でも、おかげで、その後、
メンバーととても仲良くなれて、
こちらも家族のように接することができました。
今でも繋がりあって、たまーにゲームの通知がとんでくるな(笑)。

何気にその案件も業務は結構難しくて、
そこでかなり長く色々経験できたから、ラッキーとは思えた。
仲良くやっていければ、自分もまぁ力、発揮できるんじゃん、って思えた。


プライベートでこの年に
昔やっていたピアノを久しぶりに始めたりとか、
英国留学に憧れて、そのための英会話とか、IELTS試験なんかを受けたりしたりとか
結構がんばったり、楽しんだりしていたら。
お金がなくなってしまったので、
IELTSを受験して、点を見てから、留学の方は諦めたような。
点はあとちょっとで行けそうだったけど、結局ダメだったような気がする(笑)。

今思うと、自分の存在を自分自身で守ろうと必死だったな。
でも、それがあるから今があるのかなと。

サントリーホールの小ホールでピアノが弾けたのは楽しかったな。
見に来てくださった方々、ありがとうございました。

 


平成27年(2015)
前年やその前の年なんかに嫌な目にあったことを
やがて、「パワハラ」という正式用語で世の中で言われるのが増えてきて。
それは自分の甘えではなく、「パワハラをする人が一番悪いから、
ちゃんと権力ある人に相談していいよ」という
ルートがわかったわけでありますけど。

言ってもちゃんと対処してくれなかったりとか、
なんだかんだで私を責めたりするところがあったりとか、
そこまでしてこの会社にいる必要、あるかな?と思ったりして、

秋ごろ、新卒から長く勤めていた自社を、退職する決意を固めた。
部長と自社のドトールで話し、受け入れてもらえた。
部長は、私の意見には納得してくれる感じで、
感覚も一緒だった。
今思うと、営業と上層部に全然恵まれていなかったな。

昨年抱えていたある辛い思いから離れられるきっかけとなる
別の出来事があった。
別へ切り替えることって大事だな、って思った。

 


平成28年(2016)
前の現場繋がりで知っていた会社へ転職することになった。
もともと転職するときは、違う会社へ行く予定だったが、
なんと、急に裏切られるというできごとがあって、
本当に腹が立った。
言い分を聞くと、すごい向こうの都合のいいようなことを言われて、
面と向かって一見優しそうな女性の方に
「あなたみたいな人、二度と会いたくありません。」と直接伝える機会があるとは
思わなかった。

まぁ、なんとか拾ってもらえたので、
転職間の有休消化ができたのだが、

そこで行った、ロンドンの旅行に胸を打たれた。
詳しくは別の日記記事にありますが、
一人旅で行ったけど、本当に良かった。
一生忘れられない旅になりました。
中高大とずっと好きでやってきた英語が、
初めて活かされた場だと思えた。
ビートルズAbbey Road Studioの壁に落書きできたことが思い出。

あの旅行で結構色々人生が変わったような気もした。
携帯の待ち受けが、あれ以来ずっとビッグベンで
3年経った今も変わらない。

仕事では、前の現場に戻るだけで、
知り合いも多く、安心かな、と思いきや
前に仲の良かった人(女性)が、まるで昔のことを全部忘れてしまったかのように
冷たくなって、私への扱いが酷くて驚いた。
許せなかった。
仕事はできるらしいが、心から許せないと思った。

嫌だな、と思っていた頃に、同じ現場で
別の大きな案件のメンバーとして入り、
将来この人のようなリーダーになれたらいいだろうな、という
雰囲気の人と仕事をすることができた。
結構意気投合できたので、この感じで仕事をするのが
きっとベストなんだな、と思えた。

転職してしばらくしてから、Java SE 8 Silverの試験に合格した。
Oracleベンダーの試験は初めてで、受験料も高くて緊張したが、
無事合格できて、受験料は会社が出してくれました。
その会場で、なぜか全く別の試験を受験しにきていた大学の同期と会ってビックリした。

 


●平成29年(2017)
長くいた同じ現場はあることをきっかけに離れることになり、
ここらで「もう、人さえ良ければ何の案件でもいいです」といった希望しか
持てなくなり。
自社の人とは仲良かったけど、なんだかそれ以外、色々微妙かなと思うようになってきました。

秋に配属された、初めて参画した現場がとてもよくて、
毎日定時あがりすることができた。
リーダーが若く、無駄がなく、
相談しやすかった。
他に、一緒に入っていた少し年上の沖縄から来た男性がおり、
その人の働き方を見ていると、「しっかり真面目に業務に取り組んでいれば、
あとの業務は適当でいいな」と思えました(笑)。
それゆえ、時間が結構できて、
半年くらい、資格試験の勉強をすることになった。
だんだん、はまっていったような。

朝ドラ「ひよっこ」と、終盤あたりになってから
大河ドラマ「おんな城主 直虎」にはまっていたなー。

 


●平成30年(2018)
前の年に始めた資格試験の勉強がなんと、功を奏し、
無事に、応用情報技術者に合格をしまして。
驚きました。

春までいた、前の年の秋からいた職場はもともとの約束通り、
半年で卒業になってしまったけど、
案件があれば、ずっと長くいてもらう予定だった、と残念がっていただけて、
とても嬉しかった。
卒業する際、花束までいただいて、本当に心から嬉しかった。

その後、移動したところだったが、
なんか、リーダーの人が鼻につくような嫌さがあった。
「これくらい知っていて当たり前」ということを
参画一週間目で言い放っていた気がして。
最初の2か月ほど、正直言って、そのリーダーにだいぶ苦しめられた。

ただ、作業の流れが把握できるようになれば、
自ら切り込んで進めるようになり、慣れてからしばらくしては
何も指摘されることもなく、スムーズに進んだ。
でも、他の案件では、若手のメンバーがやはりそのリーダーに苦しんでいて、
早い人で3か月くらいでさっさと退陣してしまったできる男性の方がいらっしゃった。

私は慣れてきた頃で残念ではあった。
案件がひと段落し、夏になると、毎日、なんか知らないが
体の各所に変な痛みが出るなど、体調優れないところが多くなってしまった。
検診や婦人科検査では変なことは指摘されずに良かったが、
疲れを感じていたのかもしれない。


秋頃、またリーダーとうまくいかないことがあり、
何かと毎日3時間くらい説教を受ける目に遭い。
2011年、12年くらいに納得のいかなかった時間の再来を
改めて感じた。
自社の営業に相談しても、誰も助けてくれず、
むしろ、怒られた。甘えてる、と。

全く納得いかない、の前に、気づいたら、
誕生日を過ぎてしばらくした後、気づいたら
職場に行こうとしている足が、帰宅の方向へ向いていた。
怖くて、職場に行けなくなってしまった。

お医者さんに「もう行かないでください」と止められた。
そのまま、年末を迎えることになった。

助かったけど、微妙になってしまった。
そして、実家に電話して、現在の自社を退職する方向にしたいと伝えた。

この時、たくさんの方々に相談して、
とにかく辛い場所からは逃げたほうがいい、とだけ言ってもらえました。


秋に応用情報の1つ上となる、高度試験の1つを受けたが、
試験会場で窓際に座って西日がひどくて焦る、というトラブルで
うまくいかなかった(笑)。

 

平成31年(2019)
平成ラストイヤー、貴重なわずか4カ月。

いやぁ・・・

すごい不思議な期間でした。
最初の3か月、全く働かなかった。
最後の1月、新しい技術ばかりを学ぶ研修。


最近のことすぎて、もう詳しい記事は別で書いたのでそっち読んでくださいねー
という感じかしら(笑)
朝ドラ「まんぷく」に、毎日元気をもらっておりました。

とりあえず、AI開発をしている会社へ転職できて、良かった。

プライベート?
生きてるだけで、儲けものと思えました。

沖縄の桜を初めて見ることができて良かったな。

 

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というわけで。
大体10年ごとに分けて、綴ってみました。

最初の記事2件分は、載せている時事画像を見ながら
書いていたりもしていたんですが、
今回は何も見ずにバーーーッと書きましたが。

一応、SEなんですが、とは思えないくらい
人間的な内容の文章が多かったような気がする。


うちの姉妹や周りの友人は、
結婚、出産、育児、育児からの復職、冠婚葬祭、転職など
色々経験しているところもありますが
私は、平成のうちはずっと進学と仕事とその他だったかな(笑)。

まぁ・・・
色々ありますが、
今は親も老いて、
家族の問題などもありますが・・・

自分としては、
常にやりたいな、なりたいな、と思うところを目指せてこれたし、
平成に起こったこと、後悔はあったかもしれないけど、
素直に

「今、これで良かったな!」

と思っております。


平成最後、このように
豊かな気持ちで、記事を綴るような社会にしようとしてくれた
天皇陛下には感謝の思いでいっぱいです。
そこは、昭和の終わりを幼稚園時代に見れた私としては
より感謝の思いが強いです。

 

新時代、令和。

災害少なく、天候に恵まれ、
皆様と皆様のご家族、ご親族、ご友人、
皆、健康で豊かに、素敵な日々を一日でも多く、過ごせますように。

2019冬、転職活動の記録

こっそり転職活動をしていた、と下記の記事で書きましたが、

http://cccitrus123.hatenadiary.jp/entry/2019/02/02/181215

2月下旬に内定をいただき、
自分がやりたいと思っていたAIの開発ができる会社に
4/1に入社できることになりました。

転職活動は1月中旬あたりからしていたんですが、
個人的には半年くらいかかっちゃうのかな…と思っておりました。
まさか、1か月で決まるなんて。


内定取って、何人かの友人に会って話を聞いていただきまして、
よく聞かれるのが
「どうやって活動したの?」というのが多くて。

会ったらもちろん、直接お話は喜んでしますが、
自分でも振り返ってみたいので、書いてみることにします。


【フロー】
①転職サイト3件くらいに登録、経歴を登録しておく。
  ウチの業務形態として、常に情報技術者としての経歴書を書いておく
  感じになっていたので、その経歴書電子ファイルをもとに。
  というか、そのファイルを直接アップしたりしてました。
 
②経歴を登録しておくと、「スカウト」通知が来る。
  今やこんな時代なんですね。
  ただ、スカウトって言ってもただの「ウチに来ませんか?」みたいなもんで
  ダイレクトメールと変わりないと思った方が良い。
  
③スカウト来た中から、いいなと思う会社に応募する。
  スカウト来てないけど応募する、というのは手間がかかりそうなのでやめておいた。
  
④途中から「応募前にまず転職サイトのエージェント会社所属のエージェントと面談」というのがあり、
エージェント会社で実際にエージェントさんと面談。
  私はtypeという転職サイトを使用していて、途中から赤坂見附にあるtypeのオフィスに
  時々出向くことがありました。

⑤エージェントさん紹介の求人に応募。応募書類はエージェントさんがチェックしてくれる。
  まず、エージェントさんに転職する理由などを話し込んだ上、
  であればどういう会社に行くのがいいか、など判断してくださり、
  求人情報をその場で30件くらいいただきました。
  
  私の場合は「今よりも給料が50万くらい高い、もっと新しい技術を使った案件が
  確実にできる、直接お客さんと打ち合わせして作りたいものを考案できるところがいい」と
  伝えていたので、それに該当する会社だけを持ってきてもらいまして。
  中には、収入が今より低くなっているところや、過去に関わったことのある嫌な思い出のある会社がありましたが、
  そういうところは応募はしませんでした。
  
  応募書類は、履歴書と職務経歴書でしたが、
  ①のファイルを活かして、決まったフォーマットにコピペし、
  きれいにまとめるだけで良いとエージェントから指示があったので
  作るのにもそんなに時間はかかりませんでした。
  
⑥書類選考通過した会社へ面談に行く。
  今、売り手市場だったため、8割書類選考通過したと思います。
  結構有名な会社でも、通過しておりました。
  
  あとは、面談。
  エージェントと面談の練習したり、
  自己紹介、志望動機、転職理由、キャリアパスのイメージ(こうなりたい)などを決めて
  いざ臨みます。
  
⑦内定
  私は2社から内定もらった時点で、活動は終えました。
  

私は、転職活動スタート時に
「新しい技術(AI/クラウド/IoTといったもの)をやりたい」と思っていたのですが、
ただ、新しい技術をやってそれをどうするの?とまでは考えていなかったのです。
なんとなく、でした。

会社を辞めようと思ったのは、前の記事で述べたパワハラがトリガーですが、
ただ、1年以上前から、新しい技術を学びたいとは思っておりました。
現社にも新しい技術を用いた案件をやりたい、と話してみたんですが、
・基本的にウチでは案件がない
クラウドの案件やってる人もいるが、進むには結構難しい資格を取ってからとしている
と聞いて、現社では叶わない気がしました。

---

ある六本木の会社に面談に行った時、とても変わった方がいらっしゃって、
「うちの会社がやっていること、本当にご存知ですか?
あなたが「新しいことやりたい」って言ってますが、
うちでは新しいことは何もできず、古い技術で組み立てたロボットエンジンをただひたすら
顧客に販売し、満足しているだけの会社ですよ。
絶対つまらないと思いますよ。というわけで合ってないので。」
と、言われました。
相当変わったことを言われたので、戸惑ったし
ここはもうダメだ…不合格だな、ってか不合格って言われたも同然だしと思ったけど、
なんだかこの方はハッキリ言ってくださったので、逆に聞いてみたいと思い
「どんなことを話す方を採用したいと思ってらっしゃいますか?」と
思い切って、その場で聞いてみました。すると

「『世の中に●●という課題があって、それを解決したくて、
技術を身につけて解決したい。
そのために**という会社に入って、その会社でなければならないのは
▼▼だから。会社に期待したいことは++で、
だから自分は◇◇という利益をもたらしたい。』
ってことがはっきりしている人じゃないとダメだと、僕は思いますよ~」
と、教えてくださいました。

その面談は残念な結果になってしまったけど、
収穫はかなり大きかったです。
自分、本当になんとなくでやっていたな。
新しい技術やりたい理由ってなんだろう。
その場でメモを取りました。絶対、今後に活かそうと思いました。

---

その六本木の面接の1週間前(沖縄の旅行を挟んで)、
ある会社の1次面談で、
「エンジニア業で、好きな作業フェーズってどこですか?」と希望職の所属部署の部長に質問され、
「設計と製造(PG)が好きなのです」と言った後に
「ちなみに、どちらかと言うと私の場合、調査フェーズの時点で試しに
その要件の設計と製造をやってみてます。
できたところで、リーダーにこれでいいか確認して、
OKもらえたら、本編の設計・製造フェーズでそれを実施するようにしてます」と話すと
その部長が
「そのやり方、まさにアジャイル開発ですよ。それが今できているなら、
AIの開発作業は間違いなく、うちで可能です。
AIの開発させるのに、求人でハードル上げている会社って多いのですが、
うちでは、応募者の方の今までの仕事のやり方を大事にして
教育をするようにしております」
と、言っていただけて、とても驚き。
そして、その1次面談は合格できました。

自分の作業の仕方を、アジャイル開発と見抜いてくださり、
面談もとても楽しくできたので、AIの開発はできるし、
是非そこへ進みたいなと思っていました。
ただ、具体的に何のために…と、その六本木の人の話を思い出して考えていました。

---

他にも何社か受けまして、
ラフな服装して、「自分は大手出身なんで」とか偉そうなことしか言ってこない会社なんかもありまして、
そういう会社って、
結局大手の人の天下りばかりが集まる、目的のない会社なんじゃ?と思い
自分には合わない気がして、こちらから願い下げだ、と思ってましたが、

利益もあるか、エージェントがたまに厳しく、マジメに面談してほしいみたいな
ことを言ってくることがありました。
もっと大手を受けろ、もっと大手を受けろ、とも言われて。
でも、何も魅力を感じないのです。
やはり、あのAIの会社が忘れられないと。

結構ここらで切羽詰まってました。
なかなか1次面談も他に通らず。

---

そう言えば、と思ったのだが、
うちには、発達障害の姪(春から養護学校(小学校))がおり、
その母親であるうちの妹が、かなりコミュニケーションに苦労しているわけです。

それと、
1年以上前に思ったのを思い出したんですが、
「いつまでも、金持ちが使うようなどうでもいいシステムの改修を転々としたくない。
本当に弱い人のためだけに、何か作ってあげたい」と思ってまして。

妹に具体的なコミュニケーションの苦労ポイント、こんなものがあったら嬉しい、とか教えてほしい、とか
それに関する実証実験などが書かれた記事をネットですが調べたり、
この辺りの思いを最終面談で話そう、と思いました。

 

最終面談では、現場で一緒に働く人が出てきまして、
最近作ったAIのものとかを見せてもらいました。
それや、1次面談で部長に教えてもらったこととなどと絡ませて、
自分のその思いを伝えました。
あと、自然と「他の会社色々見たけど、もう魅力を本気で感じるのが率直に言って、ここしかない。
どうか、よろしくお願いいたします」と言ったことを最後にお辞儀して伝えました。
最終面談も、なごやかに話してくれて、とてもやりやすかったです。

翌日、無事内定をいただくことができました。

エージェントにも、現社にも退職する旨を伝える時も、
上記の思いを率直に話し、
入社決定の背中を押していただけました。

---

そんな体験談をある同業の友人(中堅企業にいる同世代の男性)に話しましたが、
「大手の経験しかない偉そうな人ってかわいそう。
小さくて尖った変な企業と、自分よくやり取りしてるけど
すごい楽しいし」って、言ってくれてちょっとホッとしましたね。

 


大変なのはもちろんこれからですが、
目標は本当に、家族を助けてあげること。
自分がやるべきは、楽しんでそのノウハウをつけること。
それだけだと思います。

嫌なことをときたま人に言われるかもしれませんが、
それは、自分がやりたいやるべきことが揺らいでいるからと思っているので、
しっかり構えられるよう、進んでいきたいと思っております。

 

※写真は内定出てからホッとした後に食べた
神保町・共栄堂の牛タンカレー と
パシフィコ横浜のガーデンテラスのビュッフェ(母が連れて行ってくれた)

グアムに行ってきました。

退職時の有休消化を利用し、グアムに旅行に行ってきました。

ビーチリゾートに行く気は自分では思い浮かばなかったんですが、
内定が出て、何人か友達に会ってご飯に行った時に
「ハワイとかどう?平和そうだし、暖かいし」
という、アドバイスをもらいまして。

ビーチだと、カップルやギャルのイメージが強くて
自分一人では大丈夫かな…と思っていたんですが
でも、一度は行ってみたいなと思っていたのと
やはり、寒いので暖かいところに行きたいかな、という思いがありました。

オプショナルツアーで「天然のイルカウォッチング」というのがあり
それは是非見てみたかった、というのもありまして。

旅行の概要としては、下記の感じですが、

<旅行の概要>
出発日…3/19
1日目…3/20
2日目…3/21
最終日…3/22

【出発日、到着後の夕方】
グアムプレミアムアウトレット
・夕飯
・初めてのシャトルバス

【1日目】
FISH EYEマリンパーク
・見学

天然イルカウォッチングクルーズ

MESKLA DOSバーガー
・昼食

Kmart
・ショッピング

毎週水曜限定チャモロビレッジ ナイトマーケット
・見学

チャモロビレッジ周辺の散歩

【2日目】
タモンビーチ散歩
・海に膝上まで入った(間違って買ってしまったショートパンツスタイルの服を着ていたため)

WESTINホテルのロクシタンラベンダースパにて、マッサージ
・ツアーのキャンペーンで、$60で受けられた(大体どこも高い)

トニーローマ
・昼食(ハンバーガー)

Kmart
・お土産とその他欲しいもののショッピング

イパオビーチ
・夕焼けと夜景の海を見る

ビーチンシュリンプ
・夕飯

ホテルにてイチロー引退を鑑賞
・ABC Storeで買ったビールを飲みながら

【最終日】
タモンビーチを歩く
・ABC Storeで買った朝ご飯を海の前で食べる

チェックアウトし、ホテルから空港まで歩き!
・50分くらい歩いて着きました

空港
・お昼
・保安検査場に1時間ちょっと並ばされ、誤って軽い液体物(目薬やファンデーションなど)を
ziplocにまとめずハラハラしながらも、何もしなくてもあっさりクリアできた
(次回はちゃんとしないと)
・ロンドン旅行の際、帰国時のチェックインと保安検査で時間がギリギリでだいぶ痛い目を見ているので
出発5時間前に着いたけど、かなりちょうど良かった。。。

無事帰国、帰宅。

 

いつも、旅行の流れに従って綴っていくんですが、
今回はなるべくシンプルにしたいなと思い、
テーマごとに写真メインでお送りしたいと思います。

 

【概要】
Prologue 出発編
1. 海
2. 街
3. ごはん
4. その他
Epilogue 帰国編

 

Prologue 出発編
往復、成田空港第2ターミナルより、韓国の会社である
ティーウェイ航空を使用しました。
ああ、カップルと女子大生ばかりだ。。。
この雰囲気に埋もれて大丈夫なのかな、と思いつつも楽しみが。

 

1. 海
海は
・1日目の午前にマリンパークのFISH EYEを訪れた時と、
天然イルカウォッチングをした時


・1日目の夕方にチャモロビレッジ付近の公園で夕焼けを見た時


・2日目の昼くらいにタモンビーチを歩いた時


・2日目の夕方にイパオビーチで見た時


・最終日の朝にホテルからタモンビーチまで歩いて、海を見ながら朝ご飯を兼ねて
ビーチを歩いた時

と、滞在時ほとんどずっと見れてました。

 

2. 街

グアム・プレミアム・アウトレット

ホテルからシャトルバスで行きました。

ROSSという安めのアパレルショップ

アウトレット内のフードコート、

到着してすぐここでご飯にしました。

横断歩道のボタン

Kmart、おそらく日本でいうヨーカドーや西友に当たる。

ホテルから近かったので、ここで色々買いました。

 

シャトルバスの中

 

このIHOPというレストラン、昔、辻堂にもあったんだよな。。。久しぶりに見た。

なくなって、サイゼリヤになったけど(それももうないけど)

 

水曜限定でしか開催されていないので、

チャモロビレッジのナイトマーケットに行ってみました。

 

よくある縁日のような感じでしたね。

 

縁日はサラッと見て、

その近くにある、歴史的建造物をめぐることにしました。

夕日がきれい。

グアム・ミュージアム

 

タモンビーチ近くのショッピング街

スパをやったWESTINホテル

かなり大きなお月様が出ていたので思わず撮影。

 

3. ごはん

到着してすぐの夕飯のサンドイッチとフレンチフライ。

上記のアウトレットのフードコートにて

 

スタバのチョコレートドリンクがあったので、ABC Storeにて買ってみた

 

1日目のランチ、MESKRA DOSバーガー。

これは、ブルーチーズが入ったハンバーガーで、

食べている時に、レジに並んでいる現地の男性に「それは何だい?」と聞かれて

バーガー名を答えました。

かなりのボリュームが。美味しかったです。

 

「ヨーグルトバー」というのがグアムに多いみたいですが、

その一つの「ヨーグルランド」

 

このカップに、好きなだけ様々な味のヨーグルトアイスとトッピングを入れて

量り売りで買う、という感じでした。

この写真ですと、約6ドルでした。

 

1日目の夕飯は、人気のレストラン「ジャマイカン・グリル」にて

シュリンプ焼きセットにしました。

30ドルくらいしましたが、なかなか美味しかったし、

お店の人がとても優しかったです。

 

先ほどからちょいちょい書いてますが、

滞在中、よくABC Storeという、コンビニ的なお店に行きました。

ハワイ、グアム、サイパンに店舗があるとのこと。

日本と同じように、コンビニコーヒーが飲めます。

このようにして売っておりました。

グアム、食べ物の価格が結構する気がしますが、コーヒーは1ドルで

日本と同じくらいでしたね。

ホットドッグもほかほかの状態で食べられました。

そういえば、今回朝食バイキングがついてなかったんですが、

これで十分でした。基本、サイズ大きいので。。

 

2日目のスパの後に、

ランチで、ホテルにあったトニーローマというお店に入りました。

こちらでもチキンサンドイッチを。

赤いドリンクは、チャモロパンチという飲み物です。

 

Kmartで買ったアイスティーとアイスコーヒー。

アイスティーの味が豊富で、とても美味しいのが印象的でした。

 

2日目の夜に入った、ホテル近くのビーチンシュリンプというお店。

だんだん、肉よりも

シュリンプが好きになってきて、最後のディナーはシュリンプにしました。

これ、なかなか辛かったな~

その後、自分でビールを買って飲んでと。

 

ラストは空港でシンプルにハムチーズサンドでしめました。


4. その他

マッサージしてもらった、

WESTINホテルのロクシタンラベンダースパ

 

道に咲いていたお花

 

ホテルのロビー


Epilogue 帰国編

行く前は一人で大丈夫かなと思うも、

特に変なアクシデントはなく(到着してからすぐ、ホテルのトイレの水が詰まった程度)、

ビーチを歩いている時、特に癒されました。

現地の方々優しかったし。

 

あと、好きなアロマキャンドルが結構豊富に売っていて、

いくつか買ってきたので

疲れたらこの時を思い出して、キャンドルをつけて香りを楽しみたいと思っております。

 

またきれいな海を見に行きたいな。

My Heisei Era Part 2 2000>>2010

 

●平成12年(2000)
高校3年生になって、大学受験をするつもりなので
一応受験生となったのだが、イマイチ実感がわかず、
ずっとマイペースで過ごしていて、
受験用の模試を受けると、非常に成績が悪く、常に「E判定」(最低基準)しか取れなかった。

ウチの高校は前後期の2期制で、前期の成績が良くないと、
指定校推薦が取れなかったみたいで。
この辺りはうろ覚えだが、指定校推薦で「だいぶいいところ」が多かったらしいが、
自分がその一覧を目にするに、行きたいと思える学部学科がなかったような気がした。
(あったのかもしれないけど)
なので、自分は一般入試しか受験できないのかなと思い、
その勉強を続けていた。前期の学校の成績は良くなかった。

徐々に、受験勉強に集中するために学校に来なくなる子、
早めに指定校推薦やAO入試やその他推薦で大学に合格する子が増えてきて、
割とプレッシャーがかかってきた。

塾では、自分の高校が私服と自由だったのに対し、
私立の男子校、女子校の生徒がとても多く、9割制服で来ている人が多くて
なんかそれも緊張が高まっていたが、何人か他校の友達ができたりして、
辛かったけど、時々授業も楽しかったりして、
ほどほどに過ごしていた。勉強は大変だったけど。

世間では2000年ということでミレニアムブームだったり、
沖縄サミットがあったりと、
色々盛り上がっていたが、
私は受験のことで精一杯であった。
本当に大学に入れるのか、見当もつかなかった。
年末まで本当に本当にずっとE判定だったので。

この頃、私は人生で一番読書をしていて、古めの洋楽ばかり聴いていた気がする。
そういえば高校の最初の頃はフランス語が好きだったのもあり、
高校に入学したのもフランス語ができるという理由でもあったが、
3年生の頃は英語の好きさが今まで以上に増していた。
英語の歌詞を眺めるのが本当に好きだった。

 


●平成13年(2001)
推薦に合格した友人に年末にもらっていた受験日本史のわかりやすい本を全部無料でいただき、
元旦からずっとそれで勉強したら、今までがウソのように理解が深まり、
何度やっても、大体80/100点は取れるようになっていた。
日本史の調子がよくなった勢いか、英語と国語の調子もそこそこ良くなり(いつも良いのか悪いのかイマイチわからなかった)
もう模試は終わってしまったが、個人的に「C判定」くらいになった気がしていた。

私は私立しか受験しないので、センター試験は不要だったが、
親のススメで受けてみた。
しかし、2日目の国語の受験中に、猛烈な気持ち悪さに襲われ、試験中に試験官のおじさんに背負われて
保健室で休み、リタイアする、という選択肢を突き付けられた。
不要とは言え、本当にショックだった。
高校で団体受験していたので、同級生が何人かお見舞いに来てくれて本当に嬉しかった。

それもあり、2月の本番はなんとしてでも頑張らないと…と思っていたが、
想像以上にダメで。
早く受けたものに関して、不合格が続き、焦りと苛立ちなどが続いた。
私は一体どうなってしまうのやら。

そんな中、一つ合格したことを知った。
ここなら入学しても十分誇らしいだろう、と思えるところの希望の学部学科に。
電話で合格発表を聞くのだが、信じられず何度も電話した。
とりあえず一安心。
あとは一応本命だが2回チャンスがあって、1回目で不合格となったからダメかなと思っていたところの
2回目受験(英語と小論文)が残っているがいかがなものか。

と、思ったら、その本命に、奇跡的に合格したのだった。
同じく、信じられず何度も何度も電話した。
E判定の私が…A判定も取ったこともないのに、合格できた。

 

大学に入ると、
学科のチャペルのガイダンスで、たまたま隣に座っていた子に話しかけたのがきっかけで
ある音楽のサークルに入った。
この間の受験がまるで嘘であるかのように
サークルに入った途端にカップルになる人、目立つ人、その他の人などがおり
先輩たちは毎日のように飲んでいる、という
今思えば「花の大学生活」みたいなのがあったが、
自分は正直言って、最初、全然なじめなかった。
みんなが大人過ぎて。どうしてそんなに簡単に大人っぽいことができるの?
自分の外見も本当にダサいし、
部の同期が話している内容がすべて大人のように感じて、
本当に逃げ出したかったのだった。やめようかなと5月には思っていた。
これだったら家にこもってイラストを描いて音楽を聴いている方がマシだ。

ただ、部は結構人数が多くて、
先輩とは結構話しやすいな~、高校と違い、先輩のことを「●●さん」とさん付けで呼び始めるという
習慣が始まった。
そして、なんとなく部の練習の時間が面白くて、
最初に部の勧誘の時に演奏してくださった曲に感動していて、
そう簡単にやめてはいけないと思ったし、

母にも「もう少しサークルのみんなと付き合い良くしなさいよ、
いつもこんな早く帰ってきて。浮いてるでしょ、あんた絶対」
と、叱られていたのであった。

まぁ最初はそんな感じだったけど、
長めの夏合宿とか、演奏会の練習を重ねていったりとかしたり、
話してくれる人々が増えてきたり、
当時、部の同期でちょっと問題を起こした人がいたりなどで
同期の人数が、よくわかってないうちに減っていたりして、
悪い状態があったものの、頭がチンプンカンプンになっていた自分としては
集中して話ができる人が増えていき、頭の整理がついて、逆に少しなじみやすくなっていった。

初めての定期演奏会を終えて、無事に1年を締めくくることができた。
今思うと、人生の中でもかなり濃い1年だったと。

一方、部じゃない友人(授業が一緒だった)が、
やたらWebに強く、ホームページの作り方の本を貸してくれて、
それにハマるという日々が始まった。

 


●平成14年(2002)
部の多くの人には内緒にしていたが、
体育の授業が一緒の同学年の男子がいて、少し仲良くなり、
メールしたり、電話したり、ご飯に行ったことがあった。
が、今思うとよくあんなよくわからないのと…と思うくらい
絡みづらかったような…
普通に話しているのに、急に「もうこれ切りだ」というのが何度もあり
全く流れが理解できなかったのであった。

夏には完全に気持ちが氷くらいに冷え、
あちらからメールがあっても既読スルーをしていて、
学内で突然背後から声をかけられたことがあり、
必死で逃げた記憶があり…(好きだったら喜ぶはずなのに)

部の春合宿で、来年からリーダー的な役割に任命され、
結構この年はイベントが多く、部の運営をする前年にも関わらず、
色々と作らないといけないことが多かった。

と、同時に、運転免許の取得に茅ヶ崎の自動車学校に通っていた。
途中諦めようとしたが、期限ギリギリで合格ができたと…

と、いう風に、個人的に色々と忙しかったので、
あの男子とこれ以上関わっている時間など持てないのだ、
第一自分から逃げるくらいなので無理でしょう、と何度も言い聞かせたような。。。

一方、地元の藤沢で中華料理店の1年の頃からウェイトレスのバイトをしていたが、
半年でやめて、部の先輩が紹介してくれた採点バイトを始めた。
大学の卒業までそれを続けた。

 


●平成15年(2003)
1年の頃からお世話になっていた先輩たちが多く卒業し、
部の運営が3年になった自分たち中心となった。
正直、1年の5月で逃げてやめようと思っていた自分には信じられない事態であった。
何しろ、週3で部員全員の前に立って、毎回マイクで指導しないといけないのであった。

この辺りから、お酒が納得いく風に飲めるようになった気がして、
味について「おいしい」と思えるようになってきた。
接するのは後輩の方が多くなり、
色々しっかりしないとだな、と思うようになったからでしょうかね。

関西に行ったり、自分たちの運営でコンサートをやったり、合宿と
なかなか楽しんでやってきたつもりではあったが、

秋頃に、ある出来事をきっかけに
各部員の不満がさく裂し続ける日々、というのがあった。
練習には人が現れなくなった。
先輩、同期、後輩、それぞれみんな、なんだかおかしくなった。
個々の先輩と電話を長々する、という異常事態であった。

これには本当にどうしていいかわからず、
部以外の友人、当時採点バイトが一緒だった高校の友人、そして両親などに相談したりして。
自分の意志の再確認でもあったが、
「どんな困難だろうと、誰が何と言おうと、自分のやりたいことは、絶対にすべき」
という意見をもらえた。

私個人的には、なんとか切り詰められるところはなんとかしていただき(他力本願だけど)
毎年やっているコンサートはやりたいな、と思っていた。
本当に勘だが、やらないと、もうこのまますべて終わるのではないかと思った。
それが自分の代は嫌だった。
余計なお世話だが、このまま卒業したら、大体のみんなが一生後悔するんじゃないか、
という気がした。社会に出て同じようなことがあっても、乗り越える能力ってのがつかなくなるんじゃないか、と。

部に入った当初は「みんな大人でついていけないよ!」と逃げ出そうとしていた自分ではあったが、
この時は、先輩からも「え、本当に先輩ですか?」ってくらい、弱腰なコメントをいただくことが多かった。
でも、そりゃそうだ。人間だもn・・・
先輩たちが学年だけで相談したい、って私に話してくださった時、
ある女性の先輩が
「これは、私たちだけで答えを出さないといけない問題なんだ。後輩のみんなを巻き込むわけにはいかないんだよ」
と、ビシッと言ってくれたことについて、今でも強烈に印象に残っている。


そんなこんなで、まぁ色んな意見は飛び交ったが
納得してコンサートに出場できる、という部員でコンサートをして、その年は終えることができた。
でも、出なかった人々だって、それ相応の意志はあったんだろうし、
それぞれの意志を大事にと。

大人になってマジョリティの意見に何ら賛成ができない瞬間がよく
仕事などでもあったりするが、
その時に、たとえ自分がマイノリティでも、
勇気を出して「NO」を言えるようになったきっかけの出来事でもあった気がしました。


この頃は学部学科の思い出はなさそうだな(笑)

 

 

●平成16年(2004)
(30の誕生日に書いた、20代の思い出概要のメモがあるので、
楽なのでここから一部引用、補足は一行空けて下に書きます)

21(2003.12.3 - 2004.12.2)
大学3, 4年生。就活がうまくいかず、悩んでいた。高校で英語の教育実習をやった。教育実習の後、SEの内定が決まった。サークルの定演と卒論提出のダブルパンチをなんとかこなした。大学時代では珍しく、平日夜の連続ドラマを見ていて「白い巨塔」「僕と彼女と彼女の生きる道」を好きでよく見ていた。売れる前のメイド喫茶に入った。ASIAN KUNG-FU GENERATIONLOVE PSYCHEDELICOの存在を知り、よく聴くようになった。

 

はい、その通りです(笑)。
他は何かやったかなー。1年生とディズニーハロウィンに行ったくらい仲良くできた。
みんな元気かなー。

ゼミ(イギリス詩演習)の後に食べる食堂のランチBOXも懐かしい。

1年のはじめの頃に「逃げ出したい」くらいと書いたけど、
私はこの部に入って本当に良かったなって思います。
人生のかけがえのない時間、そして今でもつきあいのある親友の方々を多く
作ることができました。

 


●平成17年(2005)
22(2004.12.3 - 2005.12.2)
卒業直前の春合宿で、泥酔の後、ぶっ倒れた。入社し、極端におかしい同期3人の男性に囲まれ、研修を行い、9月くらいから現場に出る。初めての現場はなんと秋葉原。そして世の中で「電車男」が大ブレイクしていた。
社会人になってから、ドラマをよく見るようになり、この頃は「がんばっていきまっしょい」と「いま、会いにゆきます」「1リットルの涙」のドラマが好きだった。

 

SEの小さな小さな会社に入社し、
後々、この会社は下請け専門のSIer中心、というのがわかったが、
社内研修のVBJavaなどから始めて、この年はまず大企業の現場に慣れることから始まった。

 

 

●平成18年(2006)
23(2005.12.3 - 2006.12.2)
社会人1, 2年目。4月から東京で一人暮らしを始め、寂しさを実感するようになる。行く現場で色々な人と知り合いになり、IT業界も様々な人種がいるのだなぁと実感する。一人の男性とえらく仲良しになる。社員旅行で石垣島へ。この年にたしかmixiを始めた。マンガ「さよなら絶望先生「ARIA」を集め始める。

 

わー懐かしいですね。
今思うと、当初の営業がだいぶパワハラとセクハラがひどくて左遷されるくらい悪かったのが
自分の経歴をよくないものにしてしまっていたな…(PJに長くいられないことあたりに)
3月までは長距離通勤だったので、長いマンガもペロリと読めていたな。

 


●平成19年(2007)
24(2006.12.3 - 2007.12.2)
社会人2, 3年目。この期間はずっと、東陽町に勤めていた。現場の人に「仕事の集中力がなさすぎる」と、一回本気で怒られ、泣いた。自分の友達の結婚式に初めて招待された。スガシカオのライブ(新木場STUDIO COAST)を観賞した。友達にPerfumeの存在を(売れる前に)教えてもらった。
それまでホームページを持っていたのだが、一旦廃止し、当ブログを「Citrus Circle Circus」という名前で始める。じきに、「CitruSTUDIO」にタイトルを変更した。

 

東陽町の元同僚さまたちとは今でも仲良くさせていただいております!
テレビ、ジャニーズ、仕事の愚痴などなど…最高!
秋葉原にも通ったし、東陽町にも通ったし、
東京の下町エリアについて徐々に詳しくなってきましたのです。

 


●平成20年(2008)
25(2007.12.3 - 2008.12.2)
社会人3, 4年目。東陽町を離れて、数ヶ月のみ千葉県の田舎に勤める。その後、リーマン・ショックの影響を受け、現場作業に入れず、給料額が激減するという窮地に立たされる。本気で立てなくなりそうになった。だが、4月から始めた料理(自炊)の効果で、1年間で15kgやせることに成功した。LOVE PSYCHEDELICO日本武道館ライブ、AUGUSTA CAMPライブ(西武球場)を観賞した。マンガ「夜桜四重奏」を集め始める。

 

今思うと、この頃の薄給で過ごす経験して本当に良かったと思いますよ。
少額でも、おいしいものは作れるし、すぐ食べられる。
というポリシーが身に付き始めた1年だったかな。
またこんな時代はいつか来てもおかしくないだろう、と、普通預金側の貯金をまじめに続け始めたきっかけでもありました。

夜桜はこの時は持ってたけど数年後に売っちゃったなー。
まだ続いてますよね!読んでみようかなぁ。

 


●平成21年(2009)
26(2008.12.3 - 2009.12.2)
社会人4, 5年目。節約生活にだいぶ慣れ、会社にお弁当を持っていく習慣ができた。4月に受けた基本情報技術者の試験に合格した。4月から無事に目黒で働けることになり、長期いすわった。個人的に貯金に力を入れるようになる。ASIAN KUNG-FU GENERATION日本武道館ライブを観賞した。左耳の一時的な難聴を患い始める(薬を飲んで治る、軽いレベル)。

 

この目黒で知り合った友人とも、今でも相当仲良しで
今年になって2回会っております!
目黒に行くようになってから、自分の着ている服に対して
「もう少し、おしゃれをすべきかもしれない」と思い始めて、
前以上に積極的に洋服を買いに行くようになったと思います。

 


●平成22年(2010)
27(2009.12.3 - 2010.12.2)
社会人5, 6年目。ブログを書くのが滞ってきたので、Twitterを始めた。23歳時の男性と3月で完全終了となった。そこからしばらく目黒でずっと仕事を続ける。怖くて嫌な人も多かったが、目黒の仲良し職場で助けられる。目黒を11月で離れることになったのをきっかけにFacebookを始める。Perfumeの東京ドームライブを観賞した。

 

つかず離れずで、交際してるかもよくわからなかったんですけど、
「彼」と書いてもいいですかね?
出会った頃から、秋葉原のすべてに詳しかった一つ年下の彼。
今では当たり前となったYouTubeは、入社2年目の頃に彼から「面白いよ」と送付されてきた
サラリーマン体操」の動画が、YouTube上にあったものを送ってきたのでそれで知ったし、
サラリーマン体操もその後有名になったし)
3回目くらいに元サヤって言ってもいいですかね?そうなったあたりで
まだ誰もスマホ使っていないときに、iPhoneに機種変していた、
というくらいの人でしたが。
私が技術にもっと積極的に興味を持つようになったのは、あの方のおかげでもあると思います。
そこは感謝かなと思えます。

一緒に過ごした時間はとても楽しかったですけど、
折り合えなかった時は寂しかったです。
懐かしいですね。まず、大学の頃には自分についてこんな経験があるなんて想像もしていませんでしたが。
納得のいく人生を送っていただければと思います。

Twitter始めたのは2009年12月だったんですが、
この時は、今のような使い方をしているなんて全く想像していなかったですね。

 

いやぁ、しかし、何事も
「想像していなかったですね」というフレーズが多くて
この先も怖い(笑)。けど、楽しみでもあるような。

 

次の10年も、これまた近日公開。

My Heisei Era Part 1 1989>>1999

新元発表まで1カ月を切ったということで、
世の中のできごとを書いてから、
自分のその年の概要を書いて、振り返ってみます。

※世の中のできごと画像は、下記レオパレス様のものを拝借

www.leopalace21.jp

 

●平成元年(1989)
昭和の終わりはよく覚えています。
今と変わらず、テレビ大好きっ子だったもので、
昭和⇒平成に切り替わる瞬間は、よくわからずに
「なぜ、アナウンサーの人々がずっと喪服を着て静かそうに話しているのだろうか」と
思いながら、テレビを見ていました。

当時は幼稚園年長で、小学校上がる前で
幼稚園の先生から「昭和⇒平成になったこと」について
説明があったんですが、
母から昭和天皇陛下の崩御の原因(病状)を聞いていて、
具体的な症状で、だいぶデリケートなことを
先生の説明中に大声で「***ってことなんだよね!」と叫んでしまい、
先生に本気でボコボコにされました。親も怒られたことでしょう。
先生、本当に申し訳ございませんでした。。。

そんな感じで春からは家の近所の小学校に入学しました。
友達はできたけど、一部変なクラスの子から、
過度な遊びといじめの間くらいな被害を受け、だいぶ困っていた。

暗い部屋で「おかあさんといっしょ」を見ている時に
歯をいじってたら、急にグルグルいって乳歯が抜けた記憶が。
これは年中の頃かしら。


●平成2年(1990)
この頃くらいですかね。「地震」を意識するようになったのは。
幼稚園の頃はそんな覚えてないけど、
小学校の教室で揺れると、クラスみんなで「あ、地震だ」と口を揃えて言うようになったもので。

2年生になってもクラス替えがないので、相変わらず一部変なクラスの子から被害に遭い、
「我が家の風呂に入って一緒に遊ぼう」と強行され、
怖くて断れない自分と、断らずに母親に叱られるのが怖いというジレンマに陥り
だいぶストレスはたまっていたと思う。

担任の先生が百人一首が好きで、自主的に教えていたのだが
それがなかなか覚えられたのと、
それを見た親に、学研の百人一首の漫画を買ってもらい、
読みふけっていて、クラスで百人一首をやると
大体優勝していた。

魔法使いサリーのアニメ(90年代版)が好きだったような。
この年に一番下の妹が生まれ、
母の出産直前くらいに、少し離れたおばあちゃんの家で過ごしていた。

 

●平成3年(1991)
3年生に入るとクラス替えがあって、
新しい友達ができ、2年生まで一緒だった嫌な子とはクラスが離れて、
今思うと、先生たちはそういう被害状況なども考えて
クラスを決めていたんではと思う。
新しい友達と遊ぶのがほぼ中心となり、
友達とは相性が良くて、ストレスのない日々が続いたと思う。

ただ、外国から転校してきた
やたら声の高い男子1名のみに、席が隣になったキッカケでひどくいじめられ、
ここでストレスを抱えてしまう。
ただ、それも母が担任に相談したか知らないけど、席替えで離れると
全くストレスがなくなった。

3年生の時の担任の先生が相当強面だったけど、
6年間通して一番優しく、叱られたことが皆無で、
クラス全体で怒鳴ることも1回しか見たことがなかった。
その1回というのも、クラス全体で屋上に出て、
一人の男子が柵を超えようとふざけた時のみだった。

クラスでボタンインコのピーちゃんを飼っていて
クラス全員から愛されており、ピーちゃんのこととなると
仲悪い人も一致団結していたくらいなのに、
ある日、ピーちゃんが鳥かごから消えてしまった時、
クラスはお通夜ムードとなったような。。。

たしかこの頃からセーラームーンのアニメが始まったような。

 

●平成4年(1992)
一人の生ぬるい感じの男子転校生が来てから、
その子がやたら、クラスの「俺たちはイケてる」と思い込んでいる男女グループに
壮絶なイジメに遭うのを見かけた。
担任の先生が1, 2年の頃と同じ先生だったため、
怒らせたら怖いのを知っていて、大丈夫かな、と思ったけど
やはり、先生が鬼のように怒鳴り狂うのを見かけ、
いじめてたグループは泣きながら反省していたもよう。
あんなに怒る先生、最近いるのだろうか。
暴力は全くふるっていなかったし、言葉も説得力あったからああいう先生もっといてほしい。

3年生からの親しい友達と私で
主にメダカの世話をする「生き物係」をやっていたが、
メダカが30匹ほどいたのに、28匹くらい死んでしまい、
係全員クラスの生徒に責められる、というつらい思いをした気がした。
その時も、先生がだいぶ味方をしてくれていた。
メダカはおそらく、水が合わなかったんだと思う。

この頃から、「学習塾」に通い始め、
なんて憂鬱な時間なのだろうと既に思い始めていた。

 


●平成5年(1993)
「なかよし」、「りぼん」を買い始めるようになる。
我が家は妹がいるため、2冊買うことができた。
なかよしはファンタジー
りぼんは現代ドラマのイメージが強いなと思っていた。

まぁ、みんなそうだと思うんですが、
なかよしでは、
ミラクル☆ガールズ」、「魔法騎士レイアース」などにハマる。
セーラームーンがなかよしの連載というのは、買い始めて知った。
りぼんでは、
ママレード・ボーイ」、「姫ちゃんのリボン」、「赤ずきんチャチャ」、「ご近所物語」などにハマる。
ときめきトゥナイトが、何年にも渡った数世代の連載である、というのは、最終回あたりで知った。

クラスに、エロシーンの盛り込まれた「少女コミック」を読んでいる
人たちもいたのだが、少し読んだけど
あまり興味が持てず、私はそんなに読まなかった。

漫画が好きすぎたのだが、なぜか
友達がいっぱい入ったから、5年生から始まった初めての部活はテニスクラブに入ってしまった。
6年生になったら絶対に漫画のクラブに入ることを
5年の1学期で決意する。

 

●平成6年(1994)
6年になって、同じ漫画クラブに入っていた同じクラスの女の子が、
クラスの「自分はイケてる」と思い込んでいる男女グループに壮絶なイジメに遭っていて、
その子は、漫画クラブの時しか登校してこなくなった。

そう言えば、この頃、3年生の頃の友人と
「交換日記」ならぬ「交換マンガ」をしていた。
漫画を描き終えたら、次の人に渡す、と言う。
その漫画も時々、メンバー以外の人も見てきて、なかなか好評だったような。
でも、一部メンバーと5年の頃クラスが離れてしまい、
マンガの進捗が滞ったような。
私はああいうのが大好きで、すぐ描いちゃって、
友達を待っている側だったような。

最終的にクラスで女の子がいじめられていたことは
当時の担任に、卒業目前に明らかになり、
クラス全員、席について、一人一言何かコメントをする、という事態になった。
クラスでとても優秀な、みんなに人気の女の子で、中学からは私立の中学に行ってしまった子ですら
だいぶ震えて「私も止めたかったけど、何されるか怖くて、止められませんでした...」と
コメントしていたのはよく覚えています。
※その子はいじめには全く関わっていない

一方、この頃、駅前の人気の学習塾に通うようになり、
当時は中学1年から始まる英語の、予習をしていた。
とても楽しくて、英語はスイスイ頭に入った。

 


●平成7年(1995)
まぁ先ほどの3月の話は、正確に言うと1995年3月の話なんですがね。
1月には阪神淡路大震災もあって、
本当にビックリしましたね・・・

中学に入学すると、隣の席の男子がやたら頭が良くて、
テストがほぼ95-100点しか取らないため、本当にビックリであった。

英語の勉強がとても楽しく、英語の点だけはその隣の席の男子に
勝つことが多く、先生のミスなども見つけるようになっていった。

うちは、小学校の隣に中学校があり(公立で、小学校と中学校は全く別の場所なのですが)
また、中学校の隣に別の公立小学校もあって、
2つの小学校の生徒がミックスされるような最初の1年間であった。
それもあるのか、

6年まで壮絶にいじめられていたあの女の子が、クラス変わったけど
全く不登校になっておらず(卒業までずっと普通に登校していた)、
6年の頃その子をいじめていた男の子が、突然1学期で転校していなくなる、
というなんか不思議な現象が起きていた。

また、この頃「名探偵コナン」のアニメが、「魔法騎士レイアース」の後番組として始まり、
レイアースも強烈に好きで見ていたが、終盤はイマイチそんなにはまっていなかった一方
コナンが始まるとものすごくはまり、当日は月曜に放映されていたが
月曜の朝に緊張するぐらい、好きだった。
好きだったので、漫画の単行本も買い始めた。

 

 

●平成8年(1996)
英語が得意だった他に、
合唱の時のピアノ伴奏をするのがとても楽しくて、
中学1年からよくやらせてもらっていたが、
中2になると、文化祭の合唱コンクールの時も務めるようになった。
ただ、歌うのも大好きで、
当時はまだ軽い「課題曲」レベルしかやっておらず、
思い切り自由曲を歌うのが楽しかったと思う。

一方、全くやりたくなかった後期の学級委員に消去法で任命されてしまう。
他のクラスの学級委員と相性が悪かったので
本当にやりがいがなかった。
前期やっていたと思われる図書委員はとても楽しかった。

2年生の3学期(1年間総合)の成績というのは、
神奈川県立の高校進学の際に、評価材料の「内申点」になるので
中2から塾に通う子がすごく増えた気がする。
英語と音楽に関しては、塾不要だった気がするが、
その他の科目に関しては、やはり塾がないと不安で
数学と理科は特にそうだった。

この頃
なかよしで「プライベート・アイズ」という作品が最終回を迎えたのをキッカケに、
なかよしを買うのをやめた気がした。

 

●平成9年(1997)
3年間全部担任の先生が同じになるとは思わなかったが、
英語の先生だったので、結果的に良かった気がした。

英検とか、受験勉強の一環で行う塾の「模試」とかで
受験会場である藤沢市内の私立の男子校に
日曜あたりに行くことが増えた。

苦しい受験勉強はあっても、合唱は大好きで
校内の有志合唱団に参加したり、
ピアノ伴奏もとうとう合唱コンクールにて「ハレルヤコーラス」の伴奏を担当し
なかなか難しい曲であったが、
本当に楽しんで演奏できたと思う。
今も、卒業記念のCDとして演奏は聞くことができる。

一方、美術の先生に新任の先生が入ってきて、
1学期のテーマは「想像して絵を描く」とか
とてもやりやすく、
好きに適当に絵を描いて、漫画好きの友人とともに
最高成績をおさめることができて、本当に運が良かった。

この頃、
「女の子のくせに濁声」ということで
多くの男子にからかわれ、だいぶストレスを抱えていた。
学校も「自分はイケてる」と思い込んでいる男女グループを筆頭に
結構荒れていて、
総合的に雰囲気は悪い時もあり(合唱の時はそうでもなかったのだけど)
いっそのこと、もう藤沢を離れた方がいいのかなと思って、
横浜にあるけど私も受験できる、英語中心で授業を行っている県立高校を
目指すようになった。

一方、受験勉強のことになると
普段話しかけてもこないくせに、急に
私に「勉強教えてよ~」とか言う女の子が何人かいた。
ちなみに、小2まで被害に遭っていた変な子も
同じ中学で、クラスになることはあれ以来一度もなかったが、
久しぶりに話しかけられたけど、だいぶまともな子になっていて驚いた。

世間ではボキャブラ天国が大人気で、
その話は今でも友人とする。

 

●平成10年(1998)
見事、その上記の高校に合格することができ、
4月から入学した。

ただ、通学がとても大変で、
毎朝7時に家を出発しないと間に合わない感じになってしまった。

1年の時のクラスでは、
最初、優しくしてくれたのに、
私みたいに地味な子がウザく感じてしまう子と知り合ってしまい、
彼女に突き放される、という絶望感を感じていた。
その数日後に、突然自分から話しかけた子と仲良くなって、
それなりに楽しく過ごしていた。

高校に入って、なかなか自分と仲良くなれるグループというものが
見つけられず、母いわく、担任の先生に心配されていたらしいが
この高校でとてもいいな、と思っていたのが
「グループに属していなくても、単体同士だと、すごい心から話せる」子が多い
ということであった。

今でも同じクラスだった何人かの子とは、FBでも繋がっていたりと、
とても感謝です。

一方、やはり勉強できる子がクラスにすごく多くて、
本当にすごいな・・・と圧巻だった。
中学では考えられないような状態があった。

 


●平成11年(1999)
中学と同じようにクラス替えは毎年あり、
2年生でまた新しい友達ができたが、
相当幅広い人種と知り合ったような。。。
私は中学まで「運動嫌いな子=地味」なのかと思っていたが、
運動嫌いでも、相当目立つ子、というのがかなり多くて、
この頃から考えが色々と変わった。

もはや、みんな面白い子ばかりなので、
どういう性格だから良い、嫌だ、というのも考えなくなってきた。
授業も楽しく、イベントも楽しく、
修学旅行は最高に楽しく、
夏休みの方が学校に行けなくて、とても憂鬱だった気がする。

時々、帰宅時は反対方向になってしまうし
お金は使うが、
横浜駅周辺に一人で遊びに行くことが多かった。
上大岡にあった八重洲ブックセンターで漫画を買って
帰りの電車で読むことも多かった。

あと、1年生から卒業まで吹奏楽部に入っていて、
人数は少なかったけど、
一応イベントごとに曲の披露をしていた。
テナーサックスをやっていたが、本当に難しくて
苦労したが、2年になって結構吹けるようになってきた。

成績優秀な子は多かったが、
数学が苦手な子はとても多く、テストの学年平均点が40点くらいだったらしいものの、
2年の時に数学だけ塾に通っていて、
微分積分だけがとても楽しく感じ、どうやら微分積分でテストで学年1位を取ったという説が。
※先生がテストを返す時に話していた「最高点」が、自分の点と同じだったのでわかった。
※ただ、学年1位は生涯それ限りである

この頃に買ったんじゃないかな、
「初めて買ったCD」と思われる、小松未歩さんのアルバムを。
あまりCDは買わず、つまりはきれいな音源があればいいと思っていたが、
現在がそんな世の中になるとはこの頃は想像だにしませんでした。

 

※次の10年は近日公開

走り出してみたのです。

最近、Facebookの友達リクエストを復活させて、懐かしい方々がレス受けてくれたのですが、
皆さんのページ見て、おっ!と思ったのが、
「今年から、ブログ始めます!」って言っていた方々が不思議と複数いらっしゃったんですね。
何かあるものなのかしら。

私もココやってるんですが、
近年、年に10投稿行くか行かないか(笑)
一定の文章書くの大事だと思うし、
どうでもいいですが、なんとなく文学部出身のプライドがあるんで(笑)
たまには書きたい・・・って、結局たまにはかい。

近況ですが
・ランニングを始めました。
・こっそり転職活動を始めました。

ランニングなんてど素人ですよ。
昔から学校であるマラソン長距離走は大嫌いだし、
無理と決めつけていたんですが。

正月に地元に帰って、やたらランナーを見かけまして…
くうねるの罪悪感が増すわあの町にいると…
と、思い
ウエアとか靴とか何はいていいのかわからないんですが
とりあえず都内に至っては家族や知人に見られることはないので、
ユニクロヒートテックのインナーとスパッツを下に着こみ、
いつものジム用のシャツ、パンツを着て、
あと、家にあった全然使っていない運動靴を履いて、

Webのマップで、走りたいコース(基本、ゴールは家)を決めて
ただひたすら走る!!

ということで、1月、2回だけ走りました。
1回目、6.75km。
2回目、8.25km。
合計ちょうど15kmじゃない?
え、自分、こんな走れるの?一回も止まらなかったよ!

なんででしょ。
私、散歩が好きなんですよね。
特に知らない道を歩くのがとても好き。
一人で平気で10km歩いたこともあるし、一人旅をたまにすることも多いからかね。
それを応用した感じで。
なので、逆に言えば知り尽くした道のランは辛くて無理です。


でも最近、転職活動がちょっと忙しくて・・・走れない。
その前に、2回目の8.25kmで、膝を壊しました。
行きつけの整骨院の先生にその旨を話すと
「よくそんな走れますね~…まぁ、最初絶対膝やるんですよ。
なので、1日おきに3kmって続けた方が、走るための膝が形成されるんで
それでいきましょう!」とアドバイスを受け。

しかも、転職活動の際、お昼に出先でいいものを食べてしまったりするから・・・
せっかく走ったってのに(笑)。


まぁ、また近々、やりたいなと思います

 

【1回目のランで折り返し地点とした、田子の浦部屋】

この前日は、稀勢の里引退で、親方が朝から報道陣に囲まれていたようです