CitruSTUDIO 2

シトラスタジオ2

My Heisei Era Part 1 1989>>1999

新元発表まで1カ月を切ったということで、
世の中のできごとを書いてから、
自分のその年の概要を書いて、振り返ってみます。

※世の中のできごと画像は、下記レオパレス様のものを拝借

www.leopalace21.jp

 

●平成元年(1989)
昭和の終わりはよく覚えています。
今と変わらず、テレビ大好きっ子だったもので、
昭和⇒平成に切り替わる瞬間は、よくわからずに
「なぜ、アナウンサーの人々がずっと喪服を着て静かそうに話しているのだろうか」と
思いながら、テレビを見ていました。

当時は幼稚園年長で、小学校上がる前で
幼稚園の先生から「昭和⇒平成になったこと」について
説明があったんですが、
母から昭和天皇陛下の崩御の原因(病状)を聞いていて、
具体的な症状で、だいぶデリケートなことを
先生の説明中に大声で「***ってことなんだよね!」と叫んでしまい、
先生に本気でボコボコにされました。親も怒られたことでしょう。
先生、本当に申し訳ございませんでした。。。

そんな感じで春からは家の近所の小学校に入学しました。
友達はできたけど、一部変なクラスの子から、
過度な遊びといじめの間くらいな被害を受け、だいぶ困っていた。

暗い部屋で「おかあさんといっしょ」を見ている時に
歯をいじってたら、急にグルグルいって乳歯が抜けた記憶が。
これは年中の頃かしら。


●平成2年(1990)
この頃くらいですかね。「地震」を意識するようになったのは。
幼稚園の頃はそんな覚えてないけど、
小学校の教室で揺れると、クラスみんなで「あ、地震だ」と口を揃えて言うようになったもので。

2年生になってもクラス替えがないので、相変わらず一部変なクラスの子から被害に遭い、
「我が家の風呂に入って一緒に遊ぼう」と強行され、
怖くて断れない自分と、断らずに母親に叱られるのが怖いというジレンマに陥り
だいぶストレスはたまっていたと思う。

担任の先生が百人一首が好きで、自主的に教えていたのだが
それがなかなか覚えられたのと、
それを見た親に、学研の百人一首の漫画を買ってもらい、
読みふけっていて、クラスで百人一首をやると
大体優勝していた。

魔法使いサリーのアニメ(90年代版)が好きだったような。
この年に一番下の妹が生まれ、
母の出産直前くらいに、少し離れたおばあちゃんの家で過ごしていた。

 

●平成3年(1991)
3年生に入るとクラス替えがあって、
新しい友達ができ、2年生まで一緒だった嫌な子とはクラスが離れて、
今思うと、先生たちはそういう被害状況なども考えて
クラスを決めていたんではと思う。
新しい友達と遊ぶのがほぼ中心となり、
友達とは相性が良くて、ストレスのない日々が続いたと思う。

ただ、外国から転校してきた
やたら声の高い男子1名のみに、席が隣になったキッカケでひどくいじめられ、
ここでストレスを抱えてしまう。
ただ、それも母が担任に相談したか知らないけど、席替えで離れると
全くストレスがなくなった。

3年生の時の担任の先生が相当強面だったけど、
6年間通して一番優しく、叱られたことが皆無で、
クラス全体で怒鳴ることも1回しか見たことがなかった。
その1回というのも、クラス全体で屋上に出て、
一人の男子が柵を超えようとふざけた時のみだった。

クラスでボタンインコのピーちゃんを飼っていて
クラス全員から愛されており、ピーちゃんのこととなると
仲悪い人も一致団結していたくらいなのに、
ある日、ピーちゃんが鳥かごから消えてしまった時、
クラスはお通夜ムードとなったような。。。

たしかこの頃からセーラームーンのアニメが始まったような。

 

●平成4年(1992)
一人の生ぬるい感じの男子転校生が来てから、
その子がやたら、クラスの「俺たちはイケてる」と思い込んでいる男女グループに
壮絶なイジメに遭うのを見かけた。
担任の先生が1, 2年の頃と同じ先生だったため、
怒らせたら怖いのを知っていて、大丈夫かな、と思ったけど
やはり、先生が鬼のように怒鳴り狂うのを見かけ、
いじめてたグループは泣きながら反省していたもよう。
あんなに怒る先生、最近いるのだろうか。
暴力は全くふるっていなかったし、言葉も説得力あったからああいう先生もっといてほしい。

3年生からの親しい友達と私で
主にメダカの世話をする「生き物係」をやっていたが、
メダカが30匹ほどいたのに、28匹くらい死んでしまい、
係全員クラスの生徒に責められる、というつらい思いをした気がした。
その時も、先生がだいぶ味方をしてくれていた。
メダカはおそらく、水が合わなかったんだと思う。

この頃から、「学習塾」に通い始め、
なんて憂鬱な時間なのだろうと既に思い始めていた。

 


●平成5年(1993)
「なかよし」、「りぼん」を買い始めるようになる。
我が家は妹がいるため、2冊買うことができた。
なかよしはファンタジー
りぼんは現代ドラマのイメージが強いなと思っていた。

まぁ、みんなそうだと思うんですが、
なかよしでは、
ミラクル☆ガールズ」、「魔法騎士レイアース」などにハマる。
セーラームーンがなかよしの連載というのは、買い始めて知った。
りぼんでは、
ママレード・ボーイ」、「姫ちゃんのリボン」、「赤ずきんチャチャ」、「ご近所物語」などにハマる。
ときめきトゥナイトが、何年にも渡った数世代の連載である、というのは、最終回あたりで知った。

クラスに、エロシーンの盛り込まれた「少女コミック」を読んでいる
人たちもいたのだが、少し読んだけど
あまり興味が持てず、私はそんなに読まなかった。

漫画が好きすぎたのだが、なぜか
友達がいっぱい入ったから、5年生から始まった初めての部活はテニスクラブに入ってしまった。
6年生になったら絶対に漫画のクラブに入ることを
5年の1学期で決意する。

 

●平成6年(1994)
6年になって、同じ漫画クラブに入っていた同じクラスの女の子が、
クラスの「自分はイケてる」と思い込んでいる男女グループに壮絶なイジメに遭っていて、
その子は、漫画クラブの時しか登校してこなくなった。

そう言えば、この頃、3年生の頃の友人と
「交換日記」ならぬ「交換マンガ」をしていた。
漫画を描き終えたら、次の人に渡す、と言う。
その漫画も時々、メンバー以外の人も見てきて、なかなか好評だったような。
でも、一部メンバーと5年の頃クラスが離れてしまい、
マンガの進捗が滞ったような。
私はああいうのが大好きで、すぐ描いちゃって、
友達を待っている側だったような。

最終的にクラスで女の子がいじめられていたことは
当時の担任に、卒業目前に明らかになり、
クラス全員、席について、一人一言何かコメントをする、という事態になった。
クラスでとても優秀な、みんなに人気の女の子で、中学からは私立の中学に行ってしまった子ですら
だいぶ震えて「私も止めたかったけど、何されるか怖くて、止められませんでした...」と
コメントしていたのはよく覚えています。
※その子はいじめには全く関わっていない

一方、この頃、駅前の人気の学習塾に通うようになり、
当時は中学1年から始まる英語の、予習をしていた。
とても楽しくて、英語はスイスイ頭に入った。

 


●平成7年(1995)
まぁ先ほどの3月の話は、正確に言うと1995年3月の話なんですがね。
1月には阪神淡路大震災もあって、
本当にビックリしましたね・・・

中学に入学すると、隣の席の男子がやたら頭が良くて、
テストがほぼ95-100点しか取らないため、本当にビックリであった。

英語の勉強がとても楽しく、英語の点だけはその隣の席の男子に
勝つことが多く、先生のミスなども見つけるようになっていった。

うちは、小学校の隣に中学校があり(公立で、小学校と中学校は全く別の場所なのですが)
また、中学校の隣に別の公立小学校もあって、
2つの小学校の生徒がミックスされるような最初の1年間であった。
それもあるのか、

6年まで壮絶にいじめられていたあの女の子が、クラス変わったけど
全く不登校になっておらず(卒業までずっと普通に登校していた)、
6年の頃その子をいじめていた男の子が、突然1学期で転校していなくなる、
というなんか不思議な現象が起きていた。

また、この頃「名探偵コナン」のアニメが、「魔法騎士レイアース」の後番組として始まり、
レイアースも強烈に好きで見ていたが、終盤はイマイチそんなにはまっていなかった一方
コナンが始まるとものすごくはまり、当日は月曜に放映されていたが
月曜の朝に緊張するぐらい、好きだった。
好きだったので、漫画の単行本も買い始めた。

 

 

●平成8年(1996)
英語が得意だった他に、
合唱の時のピアノ伴奏をするのがとても楽しくて、
中学1年からよくやらせてもらっていたが、
中2になると、文化祭の合唱コンクールの時も務めるようになった。
ただ、歌うのも大好きで、
当時はまだ軽い「課題曲」レベルしかやっておらず、
思い切り自由曲を歌うのが楽しかったと思う。

一方、全くやりたくなかった後期の学級委員に消去法で任命されてしまう。
他のクラスの学級委員と相性が悪かったので
本当にやりがいがなかった。
前期やっていたと思われる図書委員はとても楽しかった。

2年生の3学期(1年間総合)の成績というのは、
神奈川県立の高校進学の際に、評価材料の「内申点」になるので
中2から塾に通う子がすごく増えた気がする。
英語と音楽に関しては、塾不要だった気がするが、
その他の科目に関しては、やはり塾がないと不安で
数学と理科は特にそうだった。

この頃
なかよしで「プライベート・アイズ」という作品が最終回を迎えたのをキッカケに、
なかよしを買うのをやめた気がした。

 

●平成9年(1997)
3年間全部担任の先生が同じになるとは思わなかったが、
英語の先生だったので、結果的に良かった気がした。

英検とか、受験勉強の一環で行う塾の「模試」とかで
受験会場である藤沢市内の私立の男子校に
日曜あたりに行くことが増えた。

苦しい受験勉強はあっても、合唱は大好きで
校内の有志合唱団に参加したり、
ピアノ伴奏もとうとう合唱コンクールにて「ハレルヤコーラス」の伴奏を担当し
なかなか難しい曲であったが、
本当に楽しんで演奏できたと思う。
今も、卒業記念のCDとして演奏は聞くことができる。

一方、美術の先生に新任の先生が入ってきて、
1学期のテーマは「想像して絵を描く」とか
とてもやりやすく、
好きに適当に絵を描いて、漫画好きの友人とともに
最高成績をおさめることができて、本当に運が良かった。

この頃、
「女の子のくせに濁声」ということで
多くの男子にからかわれ、だいぶストレスを抱えていた。
学校も「自分はイケてる」と思い込んでいる男女グループを筆頭に
結構荒れていて、
総合的に雰囲気は悪い時もあり(合唱の時はそうでもなかったのだけど)
いっそのこと、もう藤沢を離れた方がいいのかなと思って、
横浜にあるけど私も受験できる、英語中心で授業を行っている県立高校を
目指すようになった。

一方、受験勉強のことになると
普段話しかけてもこないくせに、急に
私に「勉強教えてよ~」とか言う女の子が何人かいた。
ちなみに、小2まで被害に遭っていた変な子も
同じ中学で、クラスになることはあれ以来一度もなかったが、
久しぶりに話しかけられたけど、だいぶまともな子になっていて驚いた。

世間ではボキャブラ天国が大人気で、
その話は今でも友人とする。

 

●平成10年(1998)
見事、その上記の高校に合格することができ、
4月から入学した。

ただ、通学がとても大変で、
毎朝7時に家を出発しないと間に合わない感じになってしまった。

1年の時のクラスでは、
最初、優しくしてくれたのに、
私みたいに地味な子がウザく感じてしまう子と知り合ってしまい、
彼女に突き放される、という絶望感を感じていた。
その数日後に、突然自分から話しかけた子と仲良くなって、
それなりに楽しく過ごしていた。

高校に入って、なかなか自分と仲良くなれるグループというものが
見つけられず、母いわく、担任の先生に心配されていたらしいが
この高校でとてもいいな、と思っていたのが
「グループに属していなくても、単体同士だと、すごい心から話せる」子が多い
ということであった。

今でも同じクラスだった何人かの子とは、FBでも繋がっていたりと、
とても感謝です。

一方、やはり勉強できる子がクラスにすごく多くて、
本当にすごいな・・・と圧巻だった。
中学では考えられないような状態があった。

 


●平成11年(1999)
中学と同じようにクラス替えは毎年あり、
2年生でまた新しい友達ができたが、
相当幅広い人種と知り合ったような。。。
私は中学まで「運動嫌いな子=地味」なのかと思っていたが、
運動嫌いでも、相当目立つ子、というのがかなり多くて、
この頃から考えが色々と変わった。

もはや、みんな面白い子ばかりなので、
どういう性格だから良い、嫌だ、というのも考えなくなってきた。
授業も楽しく、イベントも楽しく、
修学旅行は最高に楽しく、
夏休みの方が学校に行けなくて、とても憂鬱だった気がする。

時々、帰宅時は反対方向になってしまうし
お金は使うが、
横浜駅周辺に一人で遊びに行くことが多かった。
上大岡にあった八重洲ブックセンターで漫画を買って
帰りの電車で読むことも多かった。

あと、1年生から卒業まで吹奏楽部に入っていて、
人数は少なかったけど、
一応イベントごとに曲の披露をしていた。
テナーサックスをやっていたが、本当に難しくて
苦労したが、2年になって結構吹けるようになってきた。

成績優秀な子は多かったが、
数学が苦手な子はとても多く、テストの学年平均点が40点くらいだったらしいものの、
2年の時に数学だけ塾に通っていて、
微分積分だけがとても楽しく感じ、どうやら微分積分でテストで学年1位を取ったという説が。
※先生がテストを返す時に話していた「最高点」が、自分の点と同じだったのでわかった。
※ただ、学年1位は生涯それ限りである

この頃に買ったんじゃないかな、
「初めて買ったCD」と思われる、小松未歩さんのアルバムを。
あまりCDは買わず、つまりはきれいな音源があればいいと思っていたが、
現在がそんな世の中になるとはこの頃は想像だにしませんでした。

 

※次の10年は近日公開