CitruSTUDIO 2

シトラスタジオ2

My Heisei Era Part 2 2000>>2010

 

●平成12年(2000)
高校3年生になって、大学受験をするつもりなので
一応受験生となったのだが、イマイチ実感がわかず、
ずっとマイペースで過ごしていて、
受験用の模試を受けると、非常に成績が悪く、常に「E判定」(最低基準)しか取れなかった。

ウチの高校は前後期の2期制で、前期の成績が良くないと、
指定校推薦が取れなかったみたいで。
この辺りはうろ覚えだが、指定校推薦で「だいぶいいところ」が多かったらしいが、
自分がその一覧を目にするに、行きたいと思える学部学科がなかったような気がした。
(あったのかもしれないけど)
なので、自分は一般入試しか受験できないのかなと思い、
その勉強を続けていた。前期の学校の成績は良くなかった。

徐々に、受験勉強に集中するために学校に来なくなる子、
早めに指定校推薦やAO入試やその他推薦で大学に合格する子が増えてきて、
割とプレッシャーがかかってきた。

塾では、自分の高校が私服と自由だったのに対し、
私立の男子校、女子校の生徒がとても多く、9割制服で来ている人が多くて
なんかそれも緊張が高まっていたが、何人か他校の友達ができたりして、
辛かったけど、時々授業も楽しかったりして、
ほどほどに過ごしていた。勉強は大変だったけど。

世間では2000年ということでミレニアムブームだったり、
沖縄サミットがあったりと、
色々盛り上がっていたが、
私は受験のことで精一杯であった。
本当に大学に入れるのか、見当もつかなかった。
年末まで本当に本当にずっとE判定だったので。

この頃、私は人生で一番読書をしていて、古めの洋楽ばかり聴いていた気がする。
そういえば高校の最初の頃はフランス語が好きだったのもあり、
高校に入学したのもフランス語ができるという理由でもあったが、
3年生の頃は英語の好きさが今まで以上に増していた。
英語の歌詞を眺めるのが本当に好きだった。

 


●平成13年(2001)
推薦に合格した友人に年末にもらっていた受験日本史のわかりやすい本を全部無料でいただき、
元旦からずっとそれで勉強したら、今までがウソのように理解が深まり、
何度やっても、大体80/100点は取れるようになっていた。
日本史の調子がよくなった勢いか、英語と国語の調子もそこそこ良くなり(いつも良いのか悪いのかイマイチわからなかった)
もう模試は終わってしまったが、個人的に「C判定」くらいになった気がしていた。

私は私立しか受験しないので、センター試験は不要だったが、
親のススメで受けてみた。
しかし、2日目の国語の受験中に、猛烈な気持ち悪さに襲われ、試験中に試験官のおじさんに背負われて
保健室で休み、リタイアする、という選択肢を突き付けられた。
不要とは言え、本当にショックだった。
高校で団体受験していたので、同級生が何人かお見舞いに来てくれて本当に嬉しかった。

それもあり、2月の本番はなんとしてでも頑張らないと…と思っていたが、
想像以上にダメで。
早く受けたものに関して、不合格が続き、焦りと苛立ちなどが続いた。
私は一体どうなってしまうのやら。

そんな中、一つ合格したことを知った。
ここなら入学しても十分誇らしいだろう、と思えるところの希望の学部学科に。
電話で合格発表を聞くのだが、信じられず何度も電話した。
とりあえず一安心。
あとは一応本命だが2回チャンスがあって、1回目で不合格となったからダメかなと思っていたところの
2回目受験(英語と小論文)が残っているがいかがなものか。

と、思ったら、その本命に、奇跡的に合格したのだった。
同じく、信じられず何度も何度も電話した。
E判定の私が…A判定も取ったこともないのに、合格できた。

 

大学に入ると、
学科のチャペルのガイダンスで、たまたま隣に座っていた子に話しかけたのがきっかけで
ある音楽のサークルに入った。
この間の受験がまるで嘘であるかのように
サークルに入った途端にカップルになる人、目立つ人、その他の人などがおり
先輩たちは毎日のように飲んでいる、という
今思えば「花の大学生活」みたいなのがあったが、
自分は正直言って、最初、全然なじめなかった。
みんなが大人過ぎて。どうしてそんなに簡単に大人っぽいことができるの?
自分の外見も本当にダサいし、
部の同期が話している内容がすべて大人のように感じて、
本当に逃げ出したかったのだった。やめようかなと5月には思っていた。
これだったら家にこもってイラストを描いて音楽を聴いている方がマシだ。

ただ、部は結構人数が多くて、
先輩とは結構話しやすいな~、高校と違い、先輩のことを「●●さん」とさん付けで呼び始めるという
習慣が始まった。
そして、なんとなく部の練習の時間が面白くて、
最初に部の勧誘の時に演奏してくださった曲に感動していて、
そう簡単にやめてはいけないと思ったし、

母にも「もう少しサークルのみんなと付き合い良くしなさいよ、
いつもこんな早く帰ってきて。浮いてるでしょ、あんた絶対」
と、叱られていたのであった。

まぁ最初はそんな感じだったけど、
長めの夏合宿とか、演奏会の練習を重ねていったりとかしたり、
話してくれる人々が増えてきたり、
当時、部の同期でちょっと問題を起こした人がいたりなどで
同期の人数が、よくわかってないうちに減っていたりして、
悪い状態があったものの、頭がチンプンカンプンになっていた自分としては
集中して話ができる人が増えていき、頭の整理がついて、逆に少しなじみやすくなっていった。

初めての定期演奏会を終えて、無事に1年を締めくくることができた。
今思うと、人生の中でもかなり濃い1年だったと。

一方、部じゃない友人(授業が一緒だった)が、
やたらWebに強く、ホームページの作り方の本を貸してくれて、
それにハマるという日々が始まった。

 


●平成14年(2002)
部の多くの人には内緒にしていたが、
体育の授業が一緒の同学年の男子がいて、少し仲良くなり、
メールしたり、電話したり、ご飯に行ったことがあった。
が、今思うとよくあんなよくわからないのと…と思うくらい
絡みづらかったような…
普通に話しているのに、急に「もうこれ切りだ」というのが何度もあり
全く流れが理解できなかったのであった。

夏には完全に気持ちが氷くらいに冷え、
あちらからメールがあっても既読スルーをしていて、
学内で突然背後から声をかけられたことがあり、
必死で逃げた記憶があり…(好きだったら喜ぶはずなのに)

部の春合宿で、来年からリーダー的な役割に任命され、
結構この年はイベントが多く、部の運営をする前年にも関わらず、
色々と作らないといけないことが多かった。

と、同時に、運転免許の取得に茅ヶ崎の自動車学校に通っていた。
途中諦めようとしたが、期限ギリギリで合格ができたと…

と、いう風に、個人的に色々と忙しかったので、
あの男子とこれ以上関わっている時間など持てないのだ、
第一自分から逃げるくらいなので無理でしょう、と何度も言い聞かせたような。。。

一方、地元の藤沢で中華料理店の1年の頃からウェイトレスのバイトをしていたが、
半年でやめて、部の先輩が紹介してくれた採点バイトを始めた。
大学の卒業までそれを続けた。

 


●平成15年(2003)
1年の頃からお世話になっていた先輩たちが多く卒業し、
部の運営が3年になった自分たち中心となった。
正直、1年の5月で逃げてやめようと思っていた自分には信じられない事態であった。
何しろ、週3で部員全員の前に立って、毎回マイクで指導しないといけないのであった。

この辺りから、お酒が納得いく風に飲めるようになった気がして、
味について「おいしい」と思えるようになってきた。
接するのは後輩の方が多くなり、
色々しっかりしないとだな、と思うようになったからでしょうかね。

関西に行ったり、自分たちの運営でコンサートをやったり、合宿と
なかなか楽しんでやってきたつもりではあったが、

秋頃に、ある出来事をきっかけに
各部員の不満がさく裂し続ける日々、というのがあった。
練習には人が現れなくなった。
先輩、同期、後輩、それぞれみんな、なんだかおかしくなった。
個々の先輩と電話を長々する、という異常事態であった。

これには本当にどうしていいかわからず、
部以外の友人、当時採点バイトが一緒だった高校の友人、そして両親などに相談したりして。
自分の意志の再確認でもあったが、
「どんな困難だろうと、誰が何と言おうと、自分のやりたいことは、絶対にすべき」
という意見をもらえた。

私個人的には、なんとか切り詰められるところはなんとかしていただき(他力本願だけど)
毎年やっているコンサートはやりたいな、と思っていた。
本当に勘だが、やらないと、もうこのまますべて終わるのではないかと思った。
それが自分の代は嫌だった。
余計なお世話だが、このまま卒業したら、大体のみんなが一生後悔するんじゃないか、
という気がした。社会に出て同じようなことがあっても、乗り越える能力ってのがつかなくなるんじゃないか、と。

部に入った当初は「みんな大人でついていけないよ!」と逃げ出そうとしていた自分ではあったが、
この時は、先輩からも「え、本当に先輩ですか?」ってくらい、弱腰なコメントをいただくことが多かった。
でも、そりゃそうだ。人間だもn・・・
先輩たちが学年だけで相談したい、って私に話してくださった時、
ある女性の先輩が
「これは、私たちだけで答えを出さないといけない問題なんだ。後輩のみんなを巻き込むわけにはいかないんだよ」
と、ビシッと言ってくれたことについて、今でも強烈に印象に残っている。


そんなこんなで、まぁ色んな意見は飛び交ったが
納得してコンサートに出場できる、という部員でコンサートをして、その年は終えることができた。
でも、出なかった人々だって、それ相応の意志はあったんだろうし、
それぞれの意志を大事にと。

大人になってマジョリティの意見に何ら賛成ができない瞬間がよく
仕事などでもあったりするが、
その時に、たとえ自分がマイノリティでも、
勇気を出して「NO」を言えるようになったきっかけの出来事でもあった気がしました。


この頃は学部学科の思い出はなさそうだな(笑)

 

 

●平成16年(2004)
(30の誕生日に書いた、20代の思い出概要のメモがあるので、
楽なのでここから一部引用、補足は一行空けて下に書きます)

21(2003.12.3 - 2004.12.2)
大学3, 4年生。就活がうまくいかず、悩んでいた。高校で英語の教育実習をやった。教育実習の後、SEの内定が決まった。サークルの定演と卒論提出のダブルパンチをなんとかこなした。大学時代では珍しく、平日夜の連続ドラマを見ていて「白い巨塔」「僕と彼女と彼女の生きる道」を好きでよく見ていた。売れる前のメイド喫茶に入った。ASIAN KUNG-FU GENERATIONLOVE PSYCHEDELICOの存在を知り、よく聴くようになった。

 

はい、その通りです(笑)。
他は何かやったかなー。1年生とディズニーハロウィンに行ったくらい仲良くできた。
みんな元気かなー。

ゼミ(イギリス詩演習)の後に食べる食堂のランチBOXも懐かしい。

1年のはじめの頃に「逃げ出したい」くらいと書いたけど、
私はこの部に入って本当に良かったなって思います。
人生のかけがえのない時間、そして今でもつきあいのある親友の方々を多く
作ることができました。

 


●平成17年(2005)
22(2004.12.3 - 2005.12.2)
卒業直前の春合宿で、泥酔の後、ぶっ倒れた。入社し、極端におかしい同期3人の男性に囲まれ、研修を行い、9月くらいから現場に出る。初めての現場はなんと秋葉原。そして世の中で「電車男」が大ブレイクしていた。
社会人になってから、ドラマをよく見るようになり、この頃は「がんばっていきまっしょい」と「いま、会いにゆきます」「1リットルの涙」のドラマが好きだった。

 

SEの小さな小さな会社に入社し、
後々、この会社は下請け専門のSIer中心、というのがわかったが、
社内研修のVBJavaなどから始めて、この年はまず大企業の現場に慣れることから始まった。

 

 

●平成18年(2006)
23(2005.12.3 - 2006.12.2)
社会人1, 2年目。4月から東京で一人暮らしを始め、寂しさを実感するようになる。行く現場で色々な人と知り合いになり、IT業界も様々な人種がいるのだなぁと実感する。一人の男性とえらく仲良しになる。社員旅行で石垣島へ。この年にたしかmixiを始めた。マンガ「さよなら絶望先生「ARIA」を集め始める。

 

わー懐かしいですね。
今思うと、当初の営業がだいぶパワハラとセクハラがひどくて左遷されるくらい悪かったのが
自分の経歴をよくないものにしてしまっていたな…(PJに長くいられないことあたりに)
3月までは長距離通勤だったので、長いマンガもペロリと読めていたな。

 


●平成19年(2007)
24(2006.12.3 - 2007.12.2)
社会人2, 3年目。この期間はずっと、東陽町に勤めていた。現場の人に「仕事の集中力がなさすぎる」と、一回本気で怒られ、泣いた。自分の友達の結婚式に初めて招待された。スガシカオのライブ(新木場STUDIO COAST)を観賞した。友達にPerfumeの存在を(売れる前に)教えてもらった。
それまでホームページを持っていたのだが、一旦廃止し、当ブログを「Citrus Circle Circus」という名前で始める。じきに、「CitruSTUDIO」にタイトルを変更した。

 

東陽町の元同僚さまたちとは今でも仲良くさせていただいております!
テレビ、ジャニーズ、仕事の愚痴などなど…最高!
秋葉原にも通ったし、東陽町にも通ったし、
東京の下町エリアについて徐々に詳しくなってきましたのです。

 


●平成20年(2008)
25(2007.12.3 - 2008.12.2)
社会人3, 4年目。東陽町を離れて、数ヶ月のみ千葉県の田舎に勤める。その後、リーマン・ショックの影響を受け、現場作業に入れず、給料額が激減するという窮地に立たされる。本気で立てなくなりそうになった。だが、4月から始めた料理(自炊)の効果で、1年間で15kgやせることに成功した。LOVE PSYCHEDELICO日本武道館ライブ、AUGUSTA CAMPライブ(西武球場)を観賞した。マンガ「夜桜四重奏」を集め始める。

 

今思うと、この頃の薄給で過ごす経験して本当に良かったと思いますよ。
少額でも、おいしいものは作れるし、すぐ食べられる。
というポリシーが身に付き始めた1年だったかな。
またこんな時代はいつか来てもおかしくないだろう、と、普通預金側の貯金をまじめに続け始めたきっかけでもありました。

夜桜はこの時は持ってたけど数年後に売っちゃったなー。
まだ続いてますよね!読んでみようかなぁ。

 


●平成21年(2009)
26(2008.12.3 - 2009.12.2)
社会人4, 5年目。節約生活にだいぶ慣れ、会社にお弁当を持っていく習慣ができた。4月に受けた基本情報技術者の試験に合格した。4月から無事に目黒で働けることになり、長期いすわった。個人的に貯金に力を入れるようになる。ASIAN KUNG-FU GENERATION日本武道館ライブを観賞した。左耳の一時的な難聴を患い始める(薬を飲んで治る、軽いレベル)。

 

この目黒で知り合った友人とも、今でも相当仲良しで
今年になって2回会っております!
目黒に行くようになってから、自分の着ている服に対して
「もう少し、おしゃれをすべきかもしれない」と思い始めて、
前以上に積極的に洋服を買いに行くようになったと思います。

 


●平成22年(2010)
27(2009.12.3 - 2010.12.2)
社会人5, 6年目。ブログを書くのが滞ってきたので、Twitterを始めた。23歳時の男性と3月で完全終了となった。そこからしばらく目黒でずっと仕事を続ける。怖くて嫌な人も多かったが、目黒の仲良し職場で助けられる。目黒を11月で離れることになったのをきっかけにFacebookを始める。Perfumeの東京ドームライブを観賞した。

 

つかず離れずで、交際してるかもよくわからなかったんですけど、
「彼」と書いてもいいですかね?
出会った頃から、秋葉原のすべてに詳しかった一つ年下の彼。
今では当たり前となったYouTubeは、入社2年目の頃に彼から「面白いよ」と送付されてきた
サラリーマン体操」の動画が、YouTube上にあったものを送ってきたのでそれで知ったし、
サラリーマン体操もその後有名になったし)
3回目くらいに元サヤって言ってもいいですかね?そうなったあたりで
まだ誰もスマホ使っていないときに、iPhoneに機種変していた、
というくらいの人でしたが。
私が技術にもっと積極的に興味を持つようになったのは、あの方のおかげでもあると思います。
そこは感謝かなと思えます。

一緒に過ごした時間はとても楽しかったですけど、
折り合えなかった時は寂しかったです。
懐かしいですね。まず、大学の頃には自分についてこんな経験があるなんて想像もしていませんでしたが。
納得のいく人生を送っていただければと思います。

Twitter始めたのは2009年12月だったんですが、
この時は、今のような使い方をしているなんて全く想像していなかったですね。

 

いやぁ、しかし、何事も
「想像していなかったですね」というフレーズが多くて
この先も怖い(笑)。けど、楽しみでもあるような。

 

次の10年も、これまた近日公開。